2008年6月23日 (月)

アメリカ素描/司馬遼太郎 ~文化と文明~

食わず嫌いという言葉がある。

普通は食べ物に使う。しかしまれに作家に対して使うことがある。

私にとっての司馬遼太郎がそうであった。あまりにも有名ゆえ、あまりにも国民的作家ゆえ、あまりにも大家ゆえ。

そしてあまりにも年上のおっさんが勧めるがゆえ。

しかしはじめて読んでみた。それなりに面白かった。私も年をとったのだろうか。

司馬史観なる言葉があるらしい。日本の歴史の見方として、確立した世界を描きそれが一般に広く受け入れられているのは何ゆえか。

本書は作者がアメリカを初訪問したときのエッセイである。もともと海外紀行が得意ではない(欧米が得意ではない)作者の文章ゆえか、よく言えば肩肘はらない、ある意味力の抜いた文章でアメリカの日常の世界が描かれている。

エッセイとしてはそれは悪いことではなく、旅行者よりは踏み込み、生活者よりはひいた視点でこそできない描き方があるものである。またアメリカを移民国家として常に意識し、アメリカ人の民族的ルーツや宗教的背景からアメリカの20世紀を語っており、歴史家としての作者ならではの強みをあらわしている。

興味深い、ただし面白くはない。それがまだ私の作者への距離感。ただしもう少し彼の書物を読み進めてみようとは思う。

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アメリカ素描

2008年6月 1日 (日)

フェルマーの最終定理/サイモン・シン ~ファンタスティックドキュメント~

タイトルだけなら小難しい。

誰もが一度は聞いたことがある(かもしれない)この言葉。

「いったい何?」

それは数学界に残された最後の超難関。

それは数多くの数学者たちを魅了し虜にし、人生をかけた天才たちの挑戦を何度となく退けてきた最終定理。

手にとるときは少々迷う。「数学?わからない?難しい?」

心配無用。その意味は知らなくても理解できなくても、十分に楽しめるこの作品。

サイモン・シンという稀有な書き手の瑞々しい文章が、一つの難関に挑んでいく天才たちのドラマと、その向こうに横たわる数学の歴史を、史実に基づきながら、数学の厳密性を可能な限り損なわない程度にファンタスティックに書き込んでいく。

私が知っていたのはこのタイトルの言葉とそれを最終的に証明したワイルズという数学者の名前のみ。しかし彼の前に横たわってきた、数多くの先達の偉大な考証の積み重ねの上にワイルズは立っていたのだ。オイラー、クンマー、ジェルマン、谷山、志村・・・

名前すら知らなかった彼らの生、数論という純粋な世界、歴史のつながる果てに完成するドラマ。

ワイルズが証明を完成させる瞬間。シンは類まれな描写力で書ききっていく。それはこどものときの夢をかなえるという当たり前のドラマが、歴史を変えた瞬間だった。

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2007年2月 6日 (火)

外交敗北―日朝首脳会談の真実/重村智計 ~勝者は誰か~

我々は通常信じている。外交の場で成されていることは正しいと。報道されるものが全てであると。議員や官僚たちは国のため最善を尽くしていると。それはいずれや我々の生活に還元される日が来るであろうと。

否。外交の表も裏も知り尽くした筆者は述べる。外交は国のためではなく、国民のためのものであるべきであるが、その理想に追いつかない現実があると。その差を埋めるための欺瞞と虚構の内実を強く語る。

敗北というからには勝者がいる。あの日本中が湧いたかの国への電撃訪問時、我々の国はどうであったのか、かの国はどちらであったのか。さらに以前、我々が選んだはずの人たちが行ったあまりにも情けない振る舞い、外交とも呼べないお願い、依頼の数々。

当たり前のことであるが、外交とは交渉である。ネゴシエーション。政治の世界の中では、外交がもっともビジネスと近い方法論で動いている。勝者があり敗者もいる。時にそれは入れ替わる。

交渉で重要なのは何か。ひとつは交渉の継続性であり、それが信用を生む。馴合いを避けながらも、重ねた信用に勝る価値は少ない。そう考えると窓口は一つにしぼるべき、複数のチャンネルが混乱を生じる可能性に気づく。議員外交という言葉がありえないことを知る。そしてはげしく憤り、憂う。その積み重ねで膨大な時間と運命を失った人たちがいることを。

2007年1月21日 (日)

プリンシプルのない日本/白州次郎 ~変わらない原則~

原理・原則。数十年前と今で変わるか。時代は変わる。しかしその根幹は何か。人の営みで重要視すべきは何か。政治・経済・法律・産業。すべては人の生活のうえに根ざしている。全ては人の生活の土台となるべきであり、人の暮らしをより便利に、より快適に、より人間らしい暮らしを営むことができるように、人に奉仕するべきものである。

ところがどうだ。政治は偉い。経済はすべてに優先する。法律のせいで認められない暮らしがある。産業発展のために犠牲となる個人の生活。

本書は「育ちのいい野蛮人」と呼ばれた白州次郎氏の主として政治、経済、生活に関する評論集である。その文章、個人名や固有名詞を現在のものに置き換えたらすぐさま最新の雑誌に載せれるがごとく、文章は本質をついている。別の観点から見れば、彼の指摘から数十年、世界はまったく進歩していないということか。

いずれにしても根底に流れるのは、彼の日本という国を憂う心、友人に対する深い愛情、彼の人間に対する強い信頼。だからこそその信頼感をゆるがす政治、行政、官僚、マスコミの不作為にもちあがる大きな怒り。特に外交面に関するセンシティブな論評は、われわれが普段眼にしている新聞等での社説がいかに日和見で表層的なものかを教えてくれる。

数十年後、この書を読んで、この論評が古いものに感じられる日がくることを祈りたい。

2007年1月14日 (日)

縮んだ愛/佐川光晴 ~諦念~

教師。聖職者。障害児学級。妻一人子一人の五十男が語る諦念。人は聖なるものか。障害を抱えて生きることの困難。夫婦のずれていく思い。親子の不信と回復。

適度にリアルな登場人物たち。そこにおとづれる不条理な事故。その不条理に向かいあうとき、妻のとる思いもかけない行動。止めることのできない、いや諦める夫。ただあるものを受け入れていく。諦念。不作為。

最後のどんでん返し。真実は語られない。夫のへの共感は慎むべきか。しかし不作為と見守ることは紙一重ではないか。教師とは、夫とは、父とは何か。諦念に対する罪を背負い、主人公は語り終える。

2007年1月 6日 (土)

銀色の翼(青いけむり)/佐川光晴 ~哀~

本書は「銀色の翼」と「青いけむり」からなる。後者に関して。

男が語る。自らの経歴について。大学を出て、働き、結婚する。子供ができる。仕事を辞める。子育て。悲しみ。妻との関係の変化。炭をつくりはじめる。妻の再度の妊娠。子育て。一度の過ちとその代償のように失われた男の身体。妻との関係の再生。

何が悪いのか。嘆くしかない。憂うしかない。うらむことすらできない。客観的に見たらかなり男の語る内容は不幸である。漂う哀愁。暗くはなく淡々と語る彼。

得たものが多ければ失われたものも多い。人は得ることのみを欲して生き抜こうとする。しかし失われるものも必ずある。その多少に違いはあれ、得ることのみで成り立つものはない。男の人生は続いていく。

2006年12月26日 (火)

熱球/重松清 ~関係の狭間で~

祖父と父。父親と娘。呼び方は異なるが、親と子であるのは変わらない。

男と女。男と男。友人。 

男と女。夫婦。

都会と故郷。仕事と退職。再就職。

故郷に戻った男にとっての人生の折り返し地点で、さまざまな関係が彼を取り囲む。男はその関係にはじめは戸惑いながら、ひとつひとつを見つめていく。時には流され、疲れ、嘆き、あきらめながら。

彼の足元にあるのは十数年前の記憶。高校野球。甲子園。そこで起こった悲劇。

なぜがんばれるのか。もう一度歩き出せるのか。彼の周りには彼をつつむ世界があるから。親と子。友人。夫婦。関係があるから。彼の辿ってきた道のりで関係がつくられてきたから。

ストーリーではない。クライマックスもない。しかし人がいる。盲目的ともいえる関係への信頼感。

親はいつまでも親であり子はいつまでも子であり友はいつまでも友であり妻はいつまでも妻である。だから彼はそこにいる。関係の狭間で苦しみ、笑い、立ち、歩きはじめる。

2006年12月23日 (土)

かえっていく場所/椎名誠 ~同年代~

同世代ではないけれど、年代ごとの想いの特色が深く現れる作家である。彼の二十代の突進生活は「哀愁の町に霧が降るのだ」、「新橋烏森口青春篇」に、三十・四十台の成熟と安定は「銀座のカラス」「岳物語」に、そして五十台の憂鬱が本書に描かれる。

一人から夫婦へ、夫婦から家族へ、サラリーマンから作家へ、作家から映画監督へ、拡がり続けてきた人生の中で訪れつつある喪失感。子供は家を発ち、夫と妻は各々旅に出る。友は死を迎える。得るものよりも失うものが多くなる日々。新鮮さよりも継続するなじみの世界の方が心地よく感じる日々。

小説というより、エッセイというより、私小説。したがって作家の私生活に興味のない人には、単なる老年一歩手前の中年男の戯言にしか読めないか。しかし作者は二度と「岳物語」は書けないし、「銀座のカラス」は書けない。今しか「かえっていく場所」は書けなかったのは確かである。彼の五十台の日々が苦悩とともに詰まっている。彼の年代でしか語れなかった事は彼の年代でしか理解できないか。私が彼の年齢になったときこの小説をどう感じるか。

2006年11月13日 (月)

ナラタージュ/島本理生 ~瑞々しさと鮮烈さ~

立っている場所によってまったく見方が異なるもの。

僕が先生の立場だったら。僕が小野君の立場だったら。

わたしが親友の立場だったら。わたしが自殺した少女の立場だったら。わたしがわたしの立場だったら。

恋愛のまっただなかにいるときは気づかないかもしれない。気づいても認められないかもしれない。でも忘れられない感触。忘れられない瑞々しい言葉の記憶。こころというものがあるのなら、作者の文章はそのこころのひだをひとつひとつほぐしていく。もう忘れていたはずの心象風景を蘇らせていく。

誰にでもある、あったはずの恋愛。人を強く傷つける。この小説の中では誰もしあわせになっていない。悲しいけれどさびしいけれど、それが鮮烈なリアル。

2006年11月 9日 (木)

ビタミンF/重松清 ~「お話」の力~

少しずつもらいました。力と勇気とせつなさを。痛みと苦しさと喜びを。想い出と間違いとまっすぐな気持ちを。がんばりと本音の気持ちと愛情を。

筆者はあとがきで述べます。「お話」の力を信じること。書き手として信じ続けること。

読者も応えたい。読み手として信じること。信じ続けること。何を?この本を読んでもらったもの全てを。

振り返ればそこにいる家族。そんなに悪くない家族。ぐれてない。いじめられていない。浮気もしない。多少は色々あるけど、娘はお風呂に入ってくれないけど、息子は大学入試に失敗したけど、そんなに大きな、深い問題は抱えていないはずの家族。

けど問題の大きさ、深さは相対評価ではなく絶対評価。少女にとっての問題はつねに大きく、パパにとっての子供の問題はつねに深い。その大きさ、深さをまっすぐ見つめる。一歩まえに進む。大人には色々ある。子供にも色々ある。色々あるものに向き合って、少しでも前に進もう。少しでも家族を信じよう。そんな気持ちにさせてくれる、「お話」の力。

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