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2007年3月 5日 (月)

空白の叫び/貫井徳郎~冗長なる濃厚~

読み終えるとかなりの満腹感。もうおなか一杯。もう食べれません。質も量もたっぷりと。空腹でない方、繊細な味覚の持ち主の方にはあまりお薦めできない。おそらく途中下車をなさることになるでしょう。

主人公は三人。少年たち。彼らが凶悪犯罪を犯すまで、少年院での収容生活、その後の彼らの足取りを軸に物語がすすむ。第一の成功点は彼らの人物造形。徹底したフィクショナリズムにより小説的な存在となった少年たち。そして第二に彼らを犯罪に追い込む大人たちと社会の通念。あくまでも無意識に少年たちの心の襞に未来への膿を溜めていく。第三は作者のお手の物。道中のプロットに伏線を振りかけ、最後にばらす事でのカタルシス。

第三の成功点にこれまでの作品では特化してきた作者が、故意にか偶然か、別視点での展開に拡がりを持たせてきているように感じる。この読後感はしいていえば桐野夏生に似ているか。まだまだ彼女に及びはしないが、男の立場からは男性の視点での桐野的なる世界があれば覗いてみたいのもまた確か。次回作を注意して見守りたい。

2007年3月 1日 (木)

虚妄の成果主義/高橋伸夫 ~未来の重さ~

シンプルである。なぜ年功制がよいのか、なぜ成果主義は失敗するのか。筆者は自らの研究事例を題材にしながら、シンプルな論理でまとめあげていく。

この議論は軸足をどこに置くかで見える風景が変わってくる。年功制と成果主義。互いに相容れないこの二項。主軸とすべきは経営の問題か、労働の問題か。あるいはモチベーションの問題か、ライフプランの問題か。人事の問題か、組合の問題か。ジャパネスクとグローバリズムの問題か。

確かにここ数年成果主義の問題が出尽くした感がある。しかし年功制もシステムとして一度否定された時代があった。ところが筆者は言う。それはそういう時代であったからで、否定すべき必然性はない、と。むしろ成果主義、年棒制も既に否定された時代があったことを、その上で年功制が成立していったことを。

その論拠を非常にシンプルに。年功制にあった成果主義にないもの、それは「未来の重さ。」人はなぜ働くか。一度マルクスが解き明かしたはずの命題を、日本のサラリーマンにとってどうであったかを筆者は解き明かす。人は現在の否定よりも、未来の否定の方がつらいのだと。未来の重さを確認できる年功制は、それだけでモチベーションをもたらしていた。人は報酬のみで働くものではあらず、年功制の賃金は人生のライフプランから逆算された必要経費であり、モチベーションとは関係なく与えられている。では年功制のモチベーションとは何か。それは次の仕事である。仕事の成功は次の仕事の拡大と難易度の上昇をもたらす。そこに立ち向かう事が大きなモチベーションなのである。

前向きである。意地悪な言葉で言えば、性善説にたちすぎているきらいは拭いきれない。しかし筆者の言葉は、中途半端な経営理論に寄りかかる学者やコンサルタントの論拠を喝破する迫力と気概に満ちている。もちろん理論的バックボーンも怠りない。ちなみに筆者は東大教授である。岩井克人氏といい、やはり東大はなかなか骨のある学者を輩出する風土が残っているようである。

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