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2006年12月26日 (火)

熱球/重松清 ~関係の狭間で~

祖父と父。父親と娘。呼び方は異なるが、親と子であるのは変わらない。

男と女。男と男。友人。 

男と女。夫婦。

都会と故郷。仕事と退職。再就職。

故郷に戻った男にとっての人生の折り返し地点で、さまざまな関係が彼を取り囲む。男はその関係にはじめは戸惑いながら、ひとつひとつを見つめていく。時には流され、疲れ、嘆き、あきらめながら。

彼の足元にあるのは十数年前の記憶。高校野球。甲子園。そこで起こった悲劇。

なぜがんばれるのか。もう一度歩き出せるのか。彼の周りには彼をつつむ世界があるから。親と子。友人。夫婦。関係があるから。彼の辿ってきた道のりで関係がつくられてきたから。

ストーリーではない。クライマックスもない。しかし人がいる。盲目的ともいえる関係への信頼感。

親はいつまでも親であり子はいつまでも子であり友はいつまでも友であり妻はいつまでも妻である。だから彼はそこにいる。関係の狭間で苦しみ、笑い、立ち、歩きはじめる。

2006年12月23日 (土)

かえっていく場所/椎名誠 ~同年代~

同世代ではないけれど、年代ごとの想いの特色が深く現れる作家である。彼の二十代の突進生活は「哀愁の町に霧が降るのだ」、「新橋烏森口青春篇」に、三十・四十台の成熟と安定は「銀座のカラス」「岳物語」に、そして五十台の憂鬱が本書に描かれる。

一人から夫婦へ、夫婦から家族へ、サラリーマンから作家へ、作家から映画監督へ、拡がり続けてきた人生の中で訪れつつある喪失感。子供は家を発ち、夫と妻は各々旅に出る。友は死を迎える。得るものよりも失うものが多くなる日々。新鮮さよりも継続するなじみの世界の方が心地よく感じる日々。

小説というより、エッセイというより、私小説。したがって作家の私生活に興味のない人には、単なる老年一歩手前の中年男の戯言にしか読めないか。しかし作者は二度と「岳物語」は書けないし、「銀座のカラス」は書けない。今しか「かえっていく場所」は書けなかったのは確かである。彼の五十台の日々が苦悩とともに詰まっている。彼の年代でしか語れなかった事は彼の年代でしか理解できないか。私が彼の年齢になったときこの小説をどう感じるか。

2006年12月17日 (日)

終末のフール/伊坂幸太郎 ~揺さぶられる世界~

「終末」という言葉、日常生活ではあまり用いられない。小説の中でもSFなど、展開の大きな世界のお話で語られることが多い。しかし「終末」をむかえる前には必ず人がいる、人の日常がある。隕石衝突というSF的な設定の中で語られる、ふつうの人々の日常のお話である。

十数年前に核戦争後の世界をモチーフにした演劇が流行ったことがあった。そこで表現されていたのか限りない喪失感、語られたのは失った後にわきおこるささやかな希望。

地球に衝突する隕石を回避するために宇宙船にて飛び立つヒーローの映画もあった。表現されたのは人が人を救う勇気。世界愛。

この小説の登場人物たちはあくまでも失われていく世界を見ながら、世界に寄り添い、日々を過ごす。普通の日常が続いていく。何かが起きるか、いや何も起きない。朝起きる。食事をする。人と話す。走る。トレーニングをする。遊ぶ。サッカーをする。妊娠して悩んだりする。家族がいる人もあり、失った人もいる。子は親に反抗し、夫は失った妻を想い行動し、ひとりの人は仲間を求める。

「明日世界が終わるとしたら、あなたの生き方は変わるのですか?」

変わりたいのがほとんどの人にとって当たり前、だから人は争う、叫ぶ、逃げる、襲う。そんな中で数年も生き抜いた場合に何を人は思うのか。

実は人は変わらない。変わるほど強くはなれない。身近な人を大切に思い、自分をなぐさめ、時に気晴らししながら、人は生きていく。当たり前の結論だがそこにたどりつく。せつなさと悲しさとあたたかさが同居するラストシーンが、そう語りかけてくる。

2006年12月13日 (水)

コールドゲーム/萩原浩 ~突きつけられるもの~

読み終えるとシンプルな構成、シンプルな展開。驚きをはらみながら大団円を迎えるラスト。ただし溜飲が下がるかどうか、納得がいくかどうかは読者による。重いのはテーマでなく題材。学校。いじめ。友情。親子。恋愛。

主人公は高校生。登場人物のほとんどは高校生。無意識のうちにせつなくも爽やかな青春ミステリーを想像して読み進んでいた。作者もその狙いか。

青春は悪くない。若さゆえの過ちはある。子供は子供。やがて大人になり気づくはず。間違った行いに。無作為の暴力に。だがやがて大人になれなかった子供はどうなるのか。その子供の想いはどこに行くのか。誰が受け止めるのか。周りの子供は成長し、時間は記憶を風化させる。風化できない気持ちを持ち続けるものもいる。その気持ちは誰がに非難できるのか。

シンプルとは直情的。子供にはわからない。その悲しみの大きさゆえの激しい行為の正当化。

ミステリーでは当たり前の「人が死ぬ」というフィクション。その展開がリアルに突きつけられる読者もいるはず。その展開に、ラストに納得できるか。誰もが共感できるわけではない、拡がりを持てないストーリー。評価は読者に突きつけられる宿題となる。

2006年12月10日 (日)

川の名前/川端裕人 ~カワガキとは~

どこに住んでいますか。地球。アジア。日本。本州。その次は?

川は流れていますか。足元に。

僕は桜川、私は神崎川。川はどこかでつながっている。水は海でつながっている。この川とアマゾンはつながっている。足元は世界へつながっている。

最後に川に行ったのはいつですか。少年のころですか。最近ですか。

少年の視点を覚えていますか。眩しさや悔しさや高揚感と不安感、憧れと誇り、やさしさとせつなさが詰まった日々のこと。

今一度、触れてみてはどうですか。「川の名前」をつけることで、自分は世界とつながります。

2006年12月 3日 (日)

みんな一緒にバギーに乗って/川端裕人 ~がんばれ保育士さん~

保育士さん。昔の言葉でいうと保母さん・保父さん。お子さんのいない方々あるいはお子さんがすでに大きくなった方々にはあまり接することのない職業の方でしょう。

筆者はどうも子育て真っ最中に彼女・彼達の仕事振りに触れたようです。興味を持って保育士さんの奮闘をあたたかく描いています。

子供を介するとわからなくなってしまうことがあるけれど、保育士さんも、幼稚園の先生も、学校の先生も、あたりまえのようにみな人間。悩みもするし恋もする。病気にもなるし落ち込んだりする。新人もいればベテランもいる。中堅どころでもミスをしたりする。

もちろん生命に関わるようなミスは許されないけれど、親も少しはどっしりとかまえていたい。子供に間違いがあるように、大人にも間違いはきっとある。大切なのは保育士(先生)がまちがえたときに親がまちがえないこと。親がまちがえたときに保育士(先生)がまちがえないこと。当たり前だけど信頼関係を築くこと、人間同士なんだからね。

子育てとか教育とか、ほんとうはとても高尚で荘厳な営みなのです。泥くさくてめっちゃ疲れるけど。そんな奮闘ぶりをうまく画いている作品です。子育て中の人には共感を持って読んでもらえると思います。子育て中でない人、に訴えかけるには若干弱いかな、という気がしますが。保育園の主役である子供についてもう少し書き込めればよかったかな。

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