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2006年10月31日 (火)

陰日向に咲く/劇団ひとり ~長い小話~

まあ、こんなもん?いいよ。おもしろいよ。売れるよね。きっと。雰囲気あるし。でもさあ、そんなにちやほやする本でもないよ。小説かなあ、長い小話のような気がする。おもしろい!より、うまい!座布団一枚っ!て感じの。芸人だからよいのだけれどね。最後のオチを考えついたあとに小説書いてる感じがするね。だから読めるんだよね。途中はオチのためにあるから読んでいるとオチが早く読みたくなる。オチも結構オチているから面白いよね。でも小説である必要ないね。小話とか、コント、短編ドラマでも結構シュールで成立しそう。連作の小説で少しずつつなげているのはどうかなあ。構成としては必要ないと思うけど、ないとあまりにも弱い短編がうきぼりになるのかも。以上。

その日のまえに/重松清 ~小説らしい小説~

その日のまえに、すべきこと。

その日のまえに、したいこと。

その日のまえに、伝えたいこと。

その日のまえに、その日のまえに。その日が来なければよいと思うこと。

小説のような小説。フィクションのようなフィクション。フィクションであり続けてほしいフィクション。しかしいつかは誰のもとにも訪れるであろうフィクション。自分のもとに訪れる小説。

読むこと。感じること。日々、目のまえにいる人を思うこと。読み終えた僕は自分と自分のまわりを振り返る。僕のその日と、周りの人のその日のことを想う。

小説らしい小説。

2006年10月28日 (土)

マグネット/山田詠美 ~罪がないのに与えられる罰~

短編集。語られるのは恋愛。記憶。少女。死。兄弟。女性。痴。暴力。

恋は作者の重要なモチーフ。だが恋だけではない。だから読み手と読む状況を選ばない。

十代の少女なら「熱いジャズの焼き菓子」を、三十代の男性なら「解凍」を、二十代のの女性なら「マグネット」を。淋しい夜には「YO-YO」を、眠れぬ夜には「LIPS」を、電車の中では「アイロン」を、海外旅行では「COX」を、笑いたいときには「瞳の致死量」を、そして家族を想うときには「最後の資料」を。

まとめて読むととらえにくいのは確か。しかし底辺に流れる彼女の言葉は続いている。一つの小説を読み終え、次の小説を読む。ストーリーは分断されている。しかし言葉はつながっている。読み終えて流れてくるのは何か。

「罪」と「罰」。

犯した罪があれば罰がある。罰は社会的なものだけでなく個人の心象の中にも現れる。それは狂った美しさを生み、滑稽な営みをつくりだす。

時に罪がないのに与えられる罰もある。それが病であり死であったとき、身近な人にその状況が生じたとき。痛切な想いと空白の時間。

作者への距離感が近くなる。なぜなら彼女は身を切り取って提示している。どこにでも誰にで起こりうる悲しみと、悲しみの中のやさしくも強い言葉を。

2006年10月23日 (月)

今日も友だちがやってきた/野田知佑 ~鮮烈な人~

鮮烈なる文章。このひとの文章には季節が、太陽が、草木が、生き物があふれている。瑞々しくあふれている。人が、子供が、老人が、父親も、母親も、日本人がロシア人が、犬が魚が小鳥が、光と空の下で輝いている。

本書はこのひとの書の中で特に秀でているわけではない。長年書き続けているBEPALのエッセイのまとめである。すでに20年以上は続いているこのエッセイにて、彼の書く文章は変わらない。当初からずっと変わらないテーマはおそらく一つ。

「自由にいきること」

簡単ではないこのテーマに対して彼は語り続ける。ゆっくりと、焦らずに、しかし時には声高に。

「人間は何をして生きてもいいんだ。」

自由の美しさ、困難さを知っているからこそ、自らが大切にする川の自由を、自然の自由を奪おうとする「国」に対し、真っ向から強く闘い続ける。決して諦めることなく立ち向かう。その闘いの中に浮かび上がるのは、自らを信じ長いものにはまかれずに、立ち続けてきた人間の尊厳。

そしてその一方で気負いなく遊ぶこどもたちに向けられる限りなくやさしい視線。自由を模索する若者たちに向けられる熱く心強きまなざし。ひとりの男に共存するおおきな想いが文章の底流にながれている。

とはいえ本書のほとんどは川遊びや釣り遊びのなかでの交流録。気軽に手軽に読めてしまう。彼のおかげで自分も何かした(遊んだ)気分になってしまう。読み進むなかで水や自由についてもう少しだけ知りたくなったら、彼の「日本の川を旅する」や「北極海へ」を読了いただきたい。人生の地平線がぐい、と拡がること間違いない。

2006年10月21日 (土)

噂/萩原浩 ~最後の一行なくてよし~

最後の一行がすごい!という触れ込みで最後の一行まで読む。結論としては最後の一行なくてよし。その一行を書くために中盤での構成、伏線、人物描写、すべて甘い。特に犯人の内面、異常性については書き込み不足で結末が唐突。主要な登場人物に対する興味や愛着が湧きにくい。

ここまで書くのは、最後の一行を読んで最悪の読後感になってしまったから。最後の一章読まなきゃ良かった。少なくとも貫井氏の愚行録と続けて読む本ではなし。(深く自戒)

2006年10月19日 (木)

愚行録/貫井 徳郎 ~最悪だけど悪くない~

最悪の読後感。救いがないとはこのことか。

主人公はいない。あえて言えば亡くなった夫婦がそうなのか。二人にまつわる知人・友人から語られる彼らのエピソード。どこにでもありそうでしかし少し違和感の残る二人のエピソード。嫉妬・ねたみ・憧れ。誰もが持つ人としての気持ちがほんの少し他の人より強い二人。でも殺されるほどじゃないよね。それが知人・友人の主な意見。

エピソードの間に挿入される「兄」と「妹」の会話。この二人の方がはるかにイカレテイル。だから興味は移る。名乗らない兄妹は誰なのか。殺した者?殺された者?

しかしひねりのきいた構成。読書時間が短く感じることこの上ない。謎の解かれ方としてよくできている。だからミステリーとしては大合格。欲を言えばもう少し、人を掘り下げてみてほしかった。夫の嫉妬と妻のねたみ、妹の異常と兄の不気味。掘り下げて見えてくるものはおそらくある。そこまで行っても読ませることはできるはず。ただその時ミステリーとしての純度は下がるかもしれない。この作者、意外にそれを嫌うかもしれない。

2006年10月 9日 (月)

空中庭園/角田光代 ~関係性の不在~

家族とは何か。男と女と少年と少女が家にいる。しかしそこには家族はない。家での彼らは個人である。言いかえれば個人はいたが関係性はなかった。

男は愛人との関係に逃げ込み、女は子供時代から自分の母親との距離感を憂う。少女は自分を好きな男性を惑わせるうちに自分が迷い、少年はクラスで口をきく知人を持たない。

みな自らを見て、周りを見ない。自分のことは説明する。苦しいこと、しんどいこと、少しずつ全てではないけど説明する。説明したら、はい終わり。説明したからいいでしょ、もう。少しは気持ちをわかってよ。でも誰もわかってくれないよ。だって聞いちゃいないもんね説明は。みな自分で精一杯しんどいから、いや結構まじで。

そのように彼らは日々過ごす。家族のように家に集う。しかしそこには家族はない。彼らはいるけど、家族はない。

家に一人の女性が新たに集う。父親の愛人が息子の家庭教師に。彼女が感じるこの家の奇妙な空気。変だよこの家は?ナチュラルなハイテンション。しかし彼女も家族に飽きていた。ずっと昔から飽きていた。だから彼女も何も見出せない。結局何も変わらない。ただ一つできたのはこのまちから抜けること。自分の今の場所を変えること。

終わりに救いはあったのか。せつなさともやもやが同居するエンディング。彼らはどこにも行かない。おそらくいつまでもしゃべり続ける。新興住宅地・大規模ショッピングセンターのあるまちでいつまでも。

「へんな会社」のつくり方/近藤淳也 ~いい感じやん、はてな社長~

ライブドア・楽天・サイバーエージェント。
サービスを使って商売をする人。その路線の延長上に彼らは属するのか。どうもこの本を読むと違うらしい。
はてな。
サービスをつくる人。

普段僕らが当たり前のように使っているネットの向こう側では、熾烈な競争が行われている。と思っていた。
いや実際行われている。IT社長の成功談はかなり読んだ。彼らはめちゃくちゃ一生懸命働いた。
だから成功した。会社は大きくなった。金ももうかり億万長者だ。それでどうなった。その次が見つからない。
だから宇宙に行くとかテレビ局を買うとかマネーゲームをはじめるとか。何をしているか見えてこない。
だから僕らはついていけない。というよりどうでもいいからついて行かない。気にしない。

この書の著者、「はてな」社長の近藤淳也の語り口はとても「ゆるい」。しかしとても真面目だ。何をしたいのかわかっている。自覚している。だからぶれない。ゆるくしゃべっても話はぶれない。むしろゆるい語り口はわかりやすい。言葉が僕らに届きやすい。
「社会に対してプラスを提供したのとマイナスを取った差が利益だと思うんですよ。それが会社の存在価値で、その最大化をやるべきであって、手元のキャッシュを最大化したって、別に100年後に何の評価もされないですよね。」
「ものづくりですよ、はてながやることは。一番意識しているのはグーグルですね。」

真面目にものをつくっていくこと、日本人が得意だったはずのこと。肩肘張らず、いい感じで近藤は語る。

サービスについて、使う人の想いをくみとるためのしかけづくり、くみとった後のフィードバック、組織について、オープンであること。まっすぐに良いことを試してみよう、そして失敗したらもう一度やってみよう。自分もみんなも楽しくするためにやってみよう。

意識的にか無意識か、はてなの姿勢はWeb2.0につながるらしい。近藤はアメリカに発った。はてなはこれからどうなる?しばらくは彼のblogも追いかけよう。自分は楽しくなれるか?少し試してみるか。

2006年10月 1日 (日)

養老孟司の「逆さメガネ」/養老孟司 ~問題意識・問題は意識~

本当の自分はそこにある。子供は自然である。情報は変わらない。自分は常に変わる。変わることが当たり前。忘れていないか。

当たり前のことが忘れられる。忘れるのは意識がそう強いている。養老先生はかく語る。彼の語りはこの書ではかなり平易。だからわかりやすい。わかりやすすぎて速く読み進んでしまうのが難点か。少し引っ掛かりがあるほうが立ち止まって考えやすい。読者の我侭を言えば。

この書は養老先生の教育論か都市論か。論より現実。現実を論に置き換えるのは意識のしわざ。理屈にあわないものは五万とあった。しかしあわない理屈は理屈でなく、そんなものはないものとしたい。そう意識は言っている。エポケー。判断停止。

考えろ。しかし考えるな。意識と無意識。どちらも人である。人はシステムである。システムはああなればこうならない。養老先生はそう言っているではないか。彼は哲学者であると思う。考え抜いているという意味で。

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